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月明かりのシルエット ⑨

last update Last Updated: 2025-04-26 21:13:16

「トラン! どうして、ここにいるの?」

 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。

 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。

「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」

 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。

「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」

 トランの瞳が揺れる。

 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。

「帰らなくて正解だったね」

 エレナは再び、外に意識を向けた。

 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。

 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。

 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。

「うわぁっ!」

 トランが叫んだ。

 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。

 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。

 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。

 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。

 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。

 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。

──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか……

 全身を緊張が支配する。

 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。

 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。

「リノア、トランを守って!」

 エレナの強い声が響いた。

 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。

 震
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     リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑨

    「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑧

     二人が扉を閉めた瞬間、背後から響いていた低い唸り声が、建物を隔てるように途切れた。室内の冷たい静寂の中で、リノアたちの荒い呼吸だけが響き渡る。 リノアは疲れた手で扉に寄りかかりながら、胸をほっとなでおろした。その一方でエレナは緊張を途切れさせることなく、鋭い目つきで外の気配を探っている。「ここからが本当の試練──まだ気を緩めてはいけない」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、そして立ち上がった。獣たちが、こちらの様子を伺っているのが分かる。少しでも隙を見せれば、たちまちやられてしまうだろう。 窓の外は霧が怪しく揺らめいている。 その中から浮かび上がる異様な姿…… シカに似た姿——角は不自然に曲がりくねり、瞳は青白い光を放っている、まとう黒い靄のような光が、その存在をこの世界のものとは思えないものにしていた。 その奇妙な生き物たちが研究所の周囲をゆっくりと彷徨っている。──悲しげな唸り声……これは自然そのものの怒りなのかもしれない。 リノアの直感がそう囁いた。 森の奥深くでオルゴニアの樹を傷つけ、鉱石を掘り起こす人間の姿が脳裏によぎる。──きっと私たちが自然を穢したからだ。決して動物たちのせいでは…… リノアは胸に手を当てた。──やはり、そうだ、龍の涙は自然の怒りに反応している! その感触にリノアの胸が痛む。 生き物たちの動きが次第に警戒を増し、悲しくも怒りを湛えた唸り声が低く響き渡る中、エレナは鋭い動きを見せた。「追い払わなきゃ」 そう呟いたエレナは即座に弓に手を掛けた。その瞬間、リノアの顔が強張った。「エレナ!」「分かってる。眠らせるだけよ」 エレナは矢筒から特殊な加工を施した矢を選び、慎重にそれを弓に掛けた。矢先には薬草から抽出された微量の神経毒が塗布されている。 エレナの瞳が鋭く光り、狙いを定めた。その姿は、一瞬の隙も許さない緊張感を纏っている。リノアは心の奥底から湧き上がる恐怖に飲み込まれそうになった。──矢を放つことで自然の怒りを更に煽ることになるのではないか。 しかしリノアには、どうすることもできない。自然への敬意と悔恨を胸にエレナの背中を見守るほかないのだ。 龍の涙はリノアの胸の内で赤く脈動し続けている。リノアはただ、その場に立ち尽くした。 と、その時、部屋の奥で小さな物音がした。 反射的にエレ

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑦

     エレナが森の奥をじっと見つめた後、リノアに目配せを送った。「もう戻って来る気配はないみたいね」 エレナが安堵した表情を浮かべて言った。「帰るよ、リノア。あまり長く、この場所に居続けない方が良い」 そう言うと、エレナは握りしめていた弓をそっと背中に回し、矢筒の中に矢を丁寧に収めた。その動作は穏やかでありながらも、戦士としての洗練された所作を感じさせる。 エレナは肩を軽く回した後、足を一歩、前に踏み出した。 リノアは水晶をポケットに滑り込ませ、最後にもう一度オルゴニアの樹を見ようと思い、振り返った。 背後にそびえるオルゴニアの樹── その威厳ある姿は月光を浴びて一層、厳かな雰囲気を纏っている。──この樹が見てきたこの森の物語は一体、どういったものなのだろう。私の知らないことを沢山、知っていそうだ。 リノアは、その雄姿を記憶に深く刻み込ませるように眺め、エレナの後を追った。 木々の間を抜けた月の光が道を照らしている。 その道の上を流れる一筋の風を感じていた時、ふとリノアの耳に音が飛び込んできた。 それは森そのものが警告を促すかのような不快な音だった。──この鳴き声は動物のものだ。 リノアは直感的にそう感じ、息を潜めたまま耳を澄ませた。 その不協和音にも似た動物たちの咆哮は森の奥深くから聴こえてくる。その不気味な声にリノア胸がざわつく。──動物たちが怒っている……。オルゴニアの樹に触れたからだろうか。 リノアがその感覚に思考を巡らせる間もなく、風が不意に止まり、森を包んでいた音が消え去った。突然訪れた異様な静寂にリノアは警戒心を覚えた。 空気がひどく重く感じられる。──獣の息遣いを思わせる音、そして、この地面を震わせる足音…… 森全体から発せられるこの緊張感は、まるで一つの意思がリノアたちを押し潰そうとしているかのようだった。 リノアは咄嗟にエレナの腕を掴んで言葉を投げかけた。「急いで、早く……!」 リノアの言葉に反応したエレナは、リノアと共に小走りで森を駆け抜けた、その目は森の奥深くを探るように鋭く光っている。 二人の足が濡れた土を踏み、静寂を断ち切る中、唸り声と獣たちの足音が背後から迫って来る。 走っている最中、リノアは胸の龍の涙に意識を飛ばした。──龍の涙が反応している! 静けさとは程遠い、激しい怒りに共鳴す

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑥

    「エレナ、今の人たちって誰だろう?」 リノアが囁くように問いかけた。この辺りの集落の人たちとは服装も雰囲気も明らかに異なっている。「街の人たちじゃないかな」 エレナが短く答えながら、人影が消えた方向に目を凝らした。 旅人や行商人以外、街の住民が山を登ってくることは滅多にない。通常は村人たちが街まで降りて売買するものであり、街の者がわざわざ山を登ってくることは考えにくい。 それに今は夜でもある。この時間帯に山にいるのは不自然なことだ。しかも、この辺り一帯は、村の領域として知られている。「生命の欠片って言ってたよね」 リノアが呟いた。 頭の中でその言葉が繰り返される。──確かに、そう言っていた。龍の涙とは別の物だろうか。 一体、人影たちは何を探していたのだろうかと思い、リノアは人影が彫った穴に向かった。 青白く光る物体──地面に叩きつけられ、放物線を描きながら地面を跳ねて行った映像がリノアの脳裏に鮮やかに蘇る。 恐らく、この辺りだろう。 リノアは、映像をなぞるように物体の後を追った。 霧が薄くたなびく中、リノアは慎重に物体を探し始めた。湿った草の感触が指先に伝わり、冷たく柔らかな土がかすかに抵抗を返してきた。 ふと、リノアの指が硬く滑らかな物体に触れた。それは他のどれとも異なる質感で、妙な温かみを感じさせるものだった。 青白い光がリノアの顔をほのかに照らす。 物体は小さく、透明感のある結晶──その輝きは不規則で、まるで内部に閉じ込められた生命が脈動しているかのようだった。 リノアは驚きと共に息を呑んだ。ペンダントに使われている鉱石とは異なる物体……。 一目見て、ただの石ではないことが分かった。このような躍動する石は村には存在しない。「エレナ、これ、何か知ってる?」「鉱石の中には特別な力を持つ物があると、シオンから聞いたことがあるけど、それかな。私にも触らせて」 そう言って、エレナが水晶に触れてみるが、水晶は何の反応も示さなかった。「リノア、ペンダントに近づけてみて。何か反応するかも」 エレナが言った。 リノアがペンダントに水晶を近づけた瞬間、ペンダントに刻まれた星の紋章がふわりと輝きを増した。その光は、まるでペンダントが水晶に反応しているかのように神秘的なものだった。──始めてペンダントに触れた時、神殿の光景が目の前に

  • 水鏡の星詠   月明かりのシルエット ⑤

     エレナが矢筒を背負い直して茂みを出て行き、リノアもその背中を追うように続いた。 夜の冷たい空気が肌を切るように触れる。辺りは恐ろしいほど静まり返り、霧がゆっくりと地面を這うように広がっている。 足を踏み出すたびに草が湿った音を立て、リノアのペンダントがわずかに輝きを放ちながら揺れた。 その光は薄暗闇の中で頼りない希望のように感じられるものだった。 遠ざかった人影はすでに姿を消している。リノアは人影の後を追うように神殿の方向へ視線を向けた。 月光に照らされ、浮かび上がった神殿のシルエット。それは荘厳でありながら不気味な雰囲気を漂わせ、まるで二人を誘うかのように佇んでいる。 シオンの真実が、そこに待っている。しかし、そこに足を踏み入れることがどれほど危険な行為なのか、リノアには肌で感じ取ることができた。──神殿から離れて、わざわざここまで来たのは何故だろう。 リノアは、ふと思った。──何かを目印にでも? リノアは周囲を見回した。 木々の影が月光によって長く地面に伸びている。その樹木は鬱蒼と茂り、枝葉が重なり合って微かな風の流れを遮っている。 樹木以外は、これといって目立ったものはない。あると言えば、ひと際目立つ大木くらいだ。 幹が大きく真っ二つに割れている。しかし逞しくも根が地面を掴むように広がっており、古木の割には生き生きとしている。 根元にある色褪せた草花と比べ、その存在は、どこか異質なものを思わせた。 リノアは少し離れた位置から大木を見上げた。「オルゴニアの樹……」 伝承に語られるその樹の名が自然とリノアの口をついて出た。その声には、どこか懐かしさと畏怖が滲んでいる。 リノアはこの樹を何度か目にしたことがあった。 戦乱の記憶と共に蘇るのは、幾つもの古木が炎に呑まれ、破壊されていった光景だった。だが、オルゴニアの樹は奇跡的に生き延び、その根を地にしっかりと下ろしながら時を越えて存在し続けている。 その姿は、今もなお威厳と不気味さを携え、森の中で孤高の存在感を放つものだった。 近年では薄れつつ感覚ではあるものの、村人たちはかつて、森や自然そのものに神秘の力を見出してきた。 岩や湧き水、花、キノコ、菌糸、さらには日常の些細なものに至るまで、彼らは敬意を持って崇拝していた。オルゴニアの樹は、その象徴とも言える存在だった。「

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